例え初対面でも、明るくオープンなその人柄に一度触れたら、また何度も会いたくなる。「いろんなバックグラウンドの人にどんどん出会いたいし、コミュニケートしたい」という快活な女性、ヴェスナ・ペトロヴィクさん。旧ユーゴスラビアからアメリカに移住して15年のグラフィック・アーティスト。LAを拠点に2つのデザイン事務所を運営し、AIGA (American Institute of Graphic Arts)のボードメンバーとしてデザイン関連のイベント企画に忙しい。2006年には、AIGAナショナル・オーガニゼーション「クロス・カルチャー・デザイン・フォーラム」のボードメンバーとして、世界の日常デザイン・ショウをNYで開催する。社会を映すアートとしてのグラフィック・デザインを提唱し、純粋な創作にコミットしたいという、ヴェスナさんに話を聞いた。 Yumiko Loose
Vesna Petrovic: Artist プロフィール
ART as 1 (以下AA1):ヴェスナさんは、旧ユーゴスラビアのご出身です。
Vesna Petrovic (以下VP):現在は国が分断して「セルビア・モンテネグロ」と呼ばれています。今のところ、まだ(名前が)変わる様子はありませんね(笑)。
AA1:最初にアメリカに来た日のことを覚えてますか?
VP:怖かったんですよ〜(笑)。国の大学卒業後、英語と社会勉強の目的で交換プログラムに参加しカリフォルニアに来たんです。空港に着くとリムジンが待ってるって具合に全てお膳立てされていて、リムジンに初めて乗れて最初は「よっしゃ!」と思ってたくせに、車窓から街の様子を眺めるうちに「私はどこ? ここは誰?」というコネズミ状態になっちゃって(笑)。実は、1984年のロサンゼルス五輪の時に叔父を訪ねているので、LAが全く初めてってわけではなかったんです。だからプログラム先もここにしたんですよ。でも叔父の住んでる場所はオレンジ・カウンティーという郊外にあり、当時は本当に何もない所でした。世界の中でも大都市中の大都市に来て、たくさん素晴らしい体験をしようと思ってたのに、現実はぜんぜん違う。本当にがっくりしましたね。その反動で、当時UCLAの博士過程で学んでいた友人がいたので、毎週末そこに寝泊りしてLAで遊んでました(笑)。当初は1年半だけ滞在する予定だったのに、結局いまに続いてもう15年経ちます。
AA1:来る前と後では、アメリカに対する印象は変わりましたか?
VP:最初は、交換プログラムでパリに行きたかったんです。大学でフランス語を学んでいたので、言葉の通じる国が良かったんですね。でもスポンサーが見つからなかった。だから第2志望のアメリカに決めたんですけど、渡米前に自分が抱いていたアメリカに対する印象と現実のアメリカは、相当かけ離れたものでしたよ! インディペンデント映画でさえ、ハリウッド・メジャー映画の影響を免れていないから、実際にどのアメリカ映画を見ても、この国の「社会階級」みたいなものは意識しませんよね。アメリカにどれだけ「クラス」の差があるのか、それがどれだけ生活に影響しているのか、映画では分からないし、外からは見えません。私も最初は、アメリカに社会階級の問題は存在しないと思っていました。ところが実際にアメリカに住み始め、あからさまな「階級差」を目の当たりにし、とてもショックだったんです。旧ユーゴスラビアの人は貧しかったですよ。それでも、人が道端で寝るなんてことは見たこともありませんでした。世界で最も豊かな国でこんなことが起こっているなんて、しかも何の改善策も施されていないなんて、ひどく失望します。いまだにこの問題に関しては胸を痛めているし、自分でも考えていかなきゃならない事だと思ってます。多分、私はアメリカに来て以来、考え方は多少なりとも左派的になっているかもしれません。だってアメリカには、不平等な事柄が多過ぎるし、本当に考えていかなきゃならない問題が沢山ありますから。
AA1:ユーゴスラビアでの子供時代のことを教えて下さい。
VP:とても平和で、幸福でした。社会主義体制だったんですけど、ある意味、すべてのことは(国により)ちゃんとケアされていました。住む場所は提供されていたし、両親が仕事を失う心配もなかった。国民は決して豊かではなかったけれど、この世の中で人間が成し得る限りの「平等性」が保たれていたんじゃないかしら。勿論、政治背景にはいろんなことが起こっていたわけですが、でも子供にはそういうこと、関係ないじゃないですか。その瞬間瞬間の出来事や、その時々に持っているものが全てなわけですよね。私は家族と素晴らしいバケーションを過ごしたし、海へ行き、別荘で夏の休暇を楽しみ、大学時代にはヨーロッパを旅したという、素敵な思い出がたくさんある。
当時のユーゴスラビアは社会主義の国でも珍しい、西側にボーダーを開いていた国だったので、ヨーロッパ各国への旅が可能だったんです。これは事実ではないけれど、当時の私たちは、自分達をもっと中立の独立した立場にいると考えていました。後年、アメリカに住み始め、人が「“東側(Eastern
Block)”に住んでたのよね」と聞くんですけど、私は決まって「No。“ユーゴスラビア”にいたんです。どの“側(Block)”にも属していません」と答えてました。何ていうのか、アメリカに来てから、祖国の政治的な問題を意識するようになったというか、自分の人生に深く関わってるんだなと気づいたんですよね。ちょっと遅いんですけど(笑)。
AA1:「分裂」の事実は、どういうふうに受け止められましたか?
VP:ちょうどアメリカに来る時に、「あの事件」が始まり出したんです。いろいろ歴史の本を読むと、政治学者やその筋を勉強している学生、或いは専門家でない限り、ほとんど全ての戦争は、それが実際に勃発するまで「いつ起こるのか」なんて予測不可能だし、誰も気づきません。私も、いつも、「え? 自分の国が分裂? 何言ってるの?」みたいな感じで信じられなかったんですよ。現実に何が起こったのか、自分でそれを認めるのは本当に難しいことでした。あの当時アメリカにいたユーゴスラビア人は、今でも「一体何が起きたのか」「何故起こったのか」という問題に対峙しているんです。多くの人が殺された。でも私たちには「なぜ?」なんです。理解できない。わからない。「どうしてそんなことが起きなきゃならなかったのか。分裂するにしても、もっと平和に進めることもできたんじゃないのか、と…。自分の人生にとてつもない影響を及ぼしましたし、いまでも、考え、向き合っている問題ですね。 (インタビューつづく)⇒
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