私事で恐縮だが、ニューヨークのイーストビレッジに住んでいた頃、よくカフェや道端で、ばったりアーティストのデビッド・サンドリン氏に出くわしたものだ。天気の様子から作品の制作状況、家族のことなどお互い軽い立ち話をした。サンドリン氏はいつもにこにこと朗らかに、そして穏やかに接してくれた事を覚えている。長年教鞭を取るアート・カレッジでも、彼が担当するセッションは人気があり、生徒はもちろん同僚のインストラクターからも慕われていることが、その人柄を物語る。アート・スピーゲルマンが指揮をとった伝説のコミック雑誌「RAW」にカートゥニストとして参加し、「The New Yorker」など多数の出版物での仕事、ここ数年にわたる数々のソロ・ショウ開催など、ニューヨークのアートシーンに欠かせない存在となったサンドリン氏。現在はコミック画集からプリント、ドローイング、ペインティング、インスタレーションの制作プロジェクトを同時進行させ、多忙を極める。一人息子のジェイク君(5歳)を新たな作品世界のモデルに加え、ますます波に乗るサンドリン氏の創作の源泉に迫る。 Yumiko Loose
David Sandlin : Artist プロフィール
たぶん、ほかの多くのアーティストと同じように、幼年期や青春をどう過ごしたかということが、自分のアートに大きなインパクトを与えているんだと思う。
僕は1956年、北アイルランドのベルファストで生まれた。母はアイルランド人、父はアメリカ人。両親は第2次大戦中、父がアイルランドに駐屯していた時に出会った。父が北アフリカ戦線に送られる直前に結婚し、戦後10年ほどアメリカに住んだ後、またベルファストに戻って1972年まで暮らした。
ベルファストでは、シャンキル・ロード沿いのプロテスタント教徒居住地に住んでいた。アイルランドのナショナリストとイギリス政府の間で起きた“トラブル”がエスカレートしている真っ最中の話で、しかも僕の2人の姉妹はカソリック教徒と結婚していたから、普通に暮らしていける状況ではなかった。僕も14歳になっていて、不良たちとつきあいだしたり、いろいろ危険な真似をし始めていたから、両親は僕が厄介な事に巻き込まれないうちに、また抜け出せるうちにアイルランドを出ようと決めたのだ。
1972年の夏、僕達はアメリカに引っ越した。アイルランドで“パンナム機”に乗り込み、途中立ち寄ったニューヨークで、当時の僕にとっては死ぬほど珍しい「ハンバーガー」を食べたんだ。真夜中にアラバマのバーミンガムに到着し、叔父と叔母がでっかいアメ車で迎えてくれ、60マイル離れた彼らの家まで運転してくれた。
翌朝起きて窓の外を見たら、トウモロコシ畑以外、完璧になあ〜んにもなかったのを、今でも覚えている。このちびの都会っ子は、遥ばるアメリカにやって来て、この国について聞いていた事を何でも見て体験しようと思っていたのに、実際にフタをあければ一番イナカな州の超イナカな郡に閉じ込められている。結局、そこには1年ぐらいしか住まなかったけれど、お陰ですっかりひねくれてしまった。その1年間は、ハイスクールのフットボール・チームの旗にマスコットのブルドッグをペイントしたりしてやり過ごし、卒業後はバーミンガムの中でも大きな町に引っ越した。その町では洗車の仕事をして、大学に行くお金を貯めた。
大学時代は、町外れにある安っぽいカントリー・ミュージック・クラブに入り浸るようになっていた。そこでは、いわゆる“ボーン・アゲイン・クリスチャン”たちに出会った。彼らは、土曜の夜になるとめちゃめちゃクレイジーに酔っ払い、大騒ぎする。それでも翌日、日曜の朝にはちゃんと起き上がり、近所の小さなバプティスト教会に行って新たに信仰心を取り戻すのだ。これがきっかけで、僕はどんどんアメリカの清教徒主義、特にキリスト教原理主義者タイプに関する研究にとりつかれるようになった。
昔も今も、音楽が大好きだ。ベルファストを離れた当時は、T−レックスとデビッド・ボウイのファンだったけれど、バーミンガムで同じ感覚を持った人間に出会うまでは時間がかかった。持っていたロキシー・ミュージックのレコードをかけて友達に聴かせたりしたが、その反応で自分達に共通点があるかないかは一発でわかった。新しくできた友達は、ニューヨーク・ドールズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドや初期のパンク・ロック(プロト・パンク)について教えてくれ、僕は夢中になった。休暇を利用してニューヨークに遊びに行くようになると、ジェームス・チャンスやクランプス、リチャード・ヘルなどのアルバムを沢山買って帰るようになった。当時のニューヨークのミュージック・シーン(特にパンク・シーン)は本当に、本当にすごくて、アートを見に行くのと同じぐらいの情熱で、ニューヨークのミュージック・シーンにものめりこんでいった。
ニューヨークに住むようになってからは、南部にいた時よりもっとカントリーやウェスタン・ミュージックを聴くようになった。南部から距離ができたことで、恐らく幾分かのパースペクティブを保てるようになったからかもしれない。ハンク・ウィリアムスの誠実さや率直さは、パンクが目指していたものとそれほどかけ離れてはいなかったからだ。
ある夜はマッド・クラブに行き、カントリー・ミュージックの伝説的存在、アーネスト・タブのライブを見て、次の晩にはイギ−・ポップとデビー・ハリーがVIPラウンジでくつろいでるのを見たのを覚えている。いまなら、ウィルコやハンサム・ファミリーが好きで、この2つのバンドはパンクの先祖と伝統的カントリーを混ぜたような感じがする。実はヨーロッパのバンドにも弱い。マニュ・チャウやステレオ・トータルが気に入っている。
物心がついた頃から、ずっと絵を描いていたように思う。小学校の頃、親友と僕にはお互い専門分野があった。彼は動物を描くのが得意で、僕は子供用のイラスト入り聖書にあるようなリアルなスタイルの絵と、カートゥーンに出てくるモンスターのような絵を、交互に描いていた。大学に進学して専攻を決める時は、数学にするか美術にするか悩みに悩んだ。数学も大好きで、成績も良かったから。結果を言えば、当然のことながらアートを専攻に選んだ。世間一般の常識的な考えがアートへの情熱に匹敵するわけがない。卒業直前に、デニス・オッペンハイムが審査したアート・コンテストで最優秀賞に選ばれ、$500ゲットした。賞金を獲得したことと表彰されたことで、NY行きへの思いに拍車がかかったのは云うまでもなく、1980年にとうとうNYに引っ越した。それ以来ずっと、この街で、コツコツやっている。
マンハッタンのロウア−・イースト・サイドに住んで、かれこれ25年が経つ。ここにはいつも、最高のミュージック・シーンと最高のアート・シーンがある。NYで最初にやった仕事は、ストリート・アートだ。それからドローイングと、プリント・メーキングも始めた。特にシルクスクリーンとリトグラフには夢中になり、友達のバンドやアート・ショウのために、よくシルクでポスターを作ったりした。気分が乗った時は、政治的なポスターも作った。貼ったそばからすぐに引き剥がされると思っていたけれど、実際はラッキーでみんな気に入ってくれ、家に持ち帰って壁に飾ってくれたらしい。
ニューヨークで一番最初に開いたソロ・ショウでは、ペーパーに色鉛筆とオイル・スティックで描いた大きな作品を展示した。場所は、モット・ストリート(チャイナタウンのメイン・ストリート)にあったクウォク・ギャラリー。それから作品はどんどん、どんどん大きくなっていってので、ペインティングに移るようになった。家のベッドルームでオイル・ペインティングを始めたが、妻が喘息を引き起こしたため、スタジオを探さないとならなくなった。ちょうどイーストビレッジの10thストリート(1st
Avenueと2nd Avenueの間)にギャラリーをオープンしたグレイシー・マンションが、彼女の家の一室を使わせてくれることになり、そのギャラリーでは1983年に最初のソロ・ショウを開いた。
僕のショウには、大抵テーマがある。物語的なコンセプトをもっていて、一つ一つの作品は、そのコンセプトの様々な側面を表すようになっている。ショウそのものがインタラクティブで面白いものになるように、窓にインスタレーションを作って、いつも趣向を凝らすようにもしている。また、いろんな人が入手しやすいよう、プリントやバンパーステッカーとか、比較的安い値段で買える作品もつくるようにしている。僕の本やコミックも、こんなふうに、複合的なものをまとめるというようなアイデアから生まれたんだと思う。
最初の本「Land
of 1000 Beers」は、旅行記のように構成したショウと並行して出版されたものだ。ショウでは壁に直にペインティングし、道路脇に並ぶ極彩色のアトラクションや、「千のビールの国」の寓話を描いた水彩作品やドローイング作品を、至るところに展示した。これら“額に入った”アートと一緒に、先に触れた本や、バンパーステッカーや移し絵(デカル)もつくって展示販売した。
「Land of 1000 Beers」は、テーマごとに統一された一連の作品「Sinland」の、最初のマニフェスト作品の一つだ。ダンテの「神曲」とハンク・ウィリアムスを足して割ってできたようなものだと思ってくれればいい。(「Sinland」が、自分の名字「Sandlin」のアナグラムだとは、後になって気づいたことで、全くの偶然。自分ではイイ線いってると思ってたけどね)。僕にとって「Land of 1000 Beers」は苦難煉獄のメタファーであり、良くも悪くも、忘れっぽくって酔っ払った状態の「ロータス・イーター」、つまりアメリカを表している。そうだ、僕達はあのレーガン政権時代を忘れちゃいけないのだ。
このシリーズを制作している間は、ビジョンにおける煉獄として「モーテル」が大切なモチーフになっていた。次には、ダンテのテーマを完成させるため、天国と地獄を描き始めた。アトランタのネクサス・プレスから、本をつくるためのグラント(補助金)をもらっていたので、愛のサイクルとしての天国と地獄を一緒に表現しようと決め、「Burning Ring of Fire “Welcome to Sinland”」と名づけた。カントリー・ミュージックの名曲「Burning Ring of Fire」(ジョニ−・キャッシュ)で歌われた多くのシーンをペインティングのベース・アイデアとして使うことに決め、曲の各シーンのイメージを僕なりに編集し、作品シリーズに完成させてエキジビションで発表した。
ダンテの「神曲」では、地獄は神の愛から遠く離れた場所として、天国は神の愛に最も近い存在として描かれている。これに対する僕の世俗的(非宗教的)な対応は、同じ内容をもっと現在の時間軸で表現するということだ。僕は「Sinland」を「パラダイス (Paradise)」、または「Pair o’ Dice」として、ほとんど神聖で、到達できない愛の国として創造した。「Sinland」は、人間のだらしなさや欠点――欲望や罪、そしてロックンロール――を内包した、人間の愛(終わりのある愛)の国なのだ。対して「Damn Nation」 は、罠だらけの地獄、“凍った愛の落とし穴、ポルノの罠”で、愛や同情のない救われる事のない世界。「Sinland」のお陰で、僕は自分のキャラクターたちのためのランドスケープを構成することができたと思う。
どうやって作品を発展させていくかというと、例えば、ドローイングをつくる。もっといろいろ考えないとならない時は、そのドローイング作品はプリントになる。もっと探求が必要だなと思ったら、ペインティングか連作ペインティングにする。ペインティングをつくり終え、どうも自分はコンセプトについてよく考えてないな、と気づいたら、インスタレーションに変わっていく。例えば、「Burning Ring of Fire」からの2ページは、「Floorshow of Life’s Desire」 というタイトルのペインティングになり、これはExit Artで展示したインスタレーション「Sin-e-Plex / Guilty Grotto 」に発展した。この「Sin-e-Plex」では、ラスベガスとかでよく見るような、「何でも可能で何でも売れる」という文句の、インチキな誇大広告をつけたファサードをつくり、深く沁みこんだ罪と偽善の感覚を表現した。これは「Sinland」シリーズの中でも最高点に達した作品だと思うし、次の連作「A Sinner’s Progress」をうみだす種をまいてくれた。
「A Sinner’s Progress」は7部で構成されている。アメリカの清教徒主義を探求したいという長年の構想から生まれた作品だ。主人公はBill Grimm。キリスト教の珍奇な商品を販売するセールスマンで、いっつもいっつも超忙しい。彼の艱難辛苦を描いたのが「A Sinner’s Progress」というわけで、今のところ4冊の本が完成している。最新作は「Avengelist」。パルプ・コミック(チープなコミック雑誌)のような体裁をとり、ここではビルの権力に対する憧れを描いている。
昔は、いつも家族や友達をペインティングのモデルにしていたけれど、これには主に2つの理由がある。第一に、モデル料がタダだから。第二に、自分や自分が大切に思っている人たちを描くのは、描かれた対象・イメージに感情移入しやすく、オーディエンスに訴えかける力もより強くなる。僕の作品は寓話的なものが多く、個人的につながりの深い間柄のモデルを用いることで、作品にシンパシーを与えることができ、そうでないとごく平面的な神話上のキャラクターに終わってしまう。相変わらず寓意物語風に演出しているが、最近は自分と自分の家族を特によく描写するようになった。父の死と、そして息子に対する不安や希望に、自分がちゃんと向き合っていくために、より個人的な主題を扱い創作していくことがいまの僕にはとても役立っているんだ。
現在、取り組んでいる仕事は、ドローイング・シリーズ「Letters to a Dead Artist (HCW)」から発表する作品。「The Ganzfeld」最新号で18ページにわたり発表する。H.C.Westermannは、僕の大好きなアーティストの一人で、この“手紙”は彼への忠誠を誓ったものになるだろう。「A Sinner’s Progress」シリーズのペインティングも同時進行で制作しているし、「Carl Bob, Swamp Preacher Vol.5」というタイトルのドローイングにも取り掛かっているところだ。
取材・構成 Yumiko Loose
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