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ART as 1 (以下AA1):もともとポートレートを描いてた、って聞いたんですが?
MICHIKO YAO (以下MY):ああ、それはどうやってアートに目覚めたか、ってお話なんです。1990年から92年までカリフォルニアにいて、語学学校に通ってました。英語、全然できなかったんですよ。高校卒業してから既に10年は経ってた頃だったし。
AA1:その間、日本でお仕事は?
MY:ずーっとしてましたよ。事務員とか、派遣で入力の仕事したり、広告映像を作ったり、グラフィック・デザインやったり。ケーキ作ってたこともあります。インスピレーション型で、「こういうのやってみよっかなあ」と仕事変わる度に全く違う業界に入り込んでました。もう日本でやりたいことはないな、となったので、知り合いから話に聞いていたカリフォルニアに来たんです。英語ぐらい、アメリカに行けば喋れるようになるだろうと思ってたけど見事にちんぷんかん。三人称の動詞の変化に憤然としてましたからね(笑)。バスを待ってる間、黒人のおじさんに「ハロー」って話し掛けて練習したり。
AA1:度胸一つで来ましたね(笑)。ポートレートを描くようになったのはその頃ですか?
MY:友人に誘われ、競馬場近くのバーに通い出したんです。アナウンサーとか、競馬関係のおじさんばっかりがたむろしているような場所で(笑)。週に3日は行ってたかな。ある時カウンターでナプキンに落書きしてたら、バーテンダーが「俺の顔描いてみろ」と。得意なんでさらさらっと描いて見せたら、びっくりして、「これだけ描けたら、いい仕事あるよ」って言うんですよ。「またまたあ」と真に受けないでいたら、次に行った時、そのバーテンダーにバーのオーナーを紹介されました。オーナーには、「ケンタッキー・ダービーに合わせてイベントするから、お客さんの似顔絵を5ドルぐらいで描いてくれないか」ってオファーされ、「コーヒーとコーラ飲み放題だよ」って。結局そのイベントでは10人ぐらい描いたかな。以後はそこじゃ、「俺のおごり」とかでVIP待遇(笑)。
AA1:やっぱ、デビューはバーだな(笑)。
MY:その頃は本当に、ぜんっぜん英語が喋れなかったんですよ。でも絵を描いていたのでお客さんとコミュニケーションがとれた。何て言うのかな…、アメリカ人って、アートやアーティストに対してちょっと違う見方をしている、リスペクトがあるというか。だからその時つくづく、「アートってすごいな」と思ったんです。同時に、自分は子供の頃から絵を描くのが好きだったよなあ、と思い出して。日本で就職すると、そういうことどんどん忘れちゃうじゃないですか。仕事しながら普通に生活して、海外旅行したりして。でもいつも「なんか違うよな」と思ってた。それがこっちに来て思い出しちゃったんですね。
やっぱりね、日本にいると、特に女の人は、な〜んとなく何もできないような環境じゃないですか?「それしちゃダメ」って言われてないのに「しちゃいけない」って頭になってる気がする。社会がそうなってると思うんですよね。
それからコミュニティ・カレッジでドローイングのクラスをとり、これが始まりです。日本では芸大に行きたかったんですけど、家の事情でダメで。それに勉強が大っ嫌いだったし。昔は勉強する意味ってのがわからなかったですから。
AA1:それがいまじゃ、Cal
Artsに行ってバリバリやってる。
MY:不思議ですよね〜。今はものすごく勉強してますよ。
AA1:ある程度、年齢いった方が集中しませんか。若いコみたいに遊ばないし、家族がいて経済的なことも考えるし。
MY:若い人の勉強の仕方って、それだけに集中すればいいみたいなメリットはありますよね。
AA1:MICHIKOさんが勉強嫌いだったのって、若かったせいもある?
MY:やっぱり先生もあるんじゃないですか? 学校のやり方とか。昔、ピアノを習ってたんですけど、つまんなかったんですよ。弾けるようにテクニックは教えるけど、ワクワクするような音楽の素晴らしさや本質は誰も教えてくれない。練習だけ。アートでも同じ。高校の3年間、ずっと石膏デッサンやってたんですね。でも同じ紙に同じチャコールで描くっていうだけで、実験することがない。テクニック以外に、アートの本当の素晴らしさを教えてくれるような先生に出会えなかったのは残念です。
AA1:アメリカに来たことで、いろいろと変わりましたか?
MY:変わりましたね。ただ、いつも漠然と、日本を脱出しないといけないな、とは思っていたんです。だからって“絶対”アメリカというのではなく、“たまたま”アメリカだったわけですけど。
40歳になった時に、ふと、自分はこのままでいいのかなあ…と思ったんですね。その頃、アートをとるか、家庭をとって日本に戻るかというような選択に迫られていて。アメリカで頑張ろうと考えていた頃だから、「あたしはここでアートを諦めたら一生後悔するな」と思ったんです。例えアートで成功しなくても、自分で選んだ道なら納得するじゃないですか。だから、何が何でもアメリカに残ってアートをやるぞと決意した。精神的にも物理的にもいろいろ苦しい時期ではありました。日本では高卒なので、アーティスト・ビザをどうやって取るかも悩みました。弁護士に相談したら、とにかくアーティストとして活動した記録を残せという。実際、がむしゃらに作りまくりましたよ。
AA1:相当プレッシャーだったと思いますけど、逆にそれが励みになりませんでしたか?
MY:いつ日本に帰るかわからない、私にとってはもう後がない状況だったので、「やるしかない!」「人が何やってようが関係ない!」という感じでした。コミュニティ・カレッジのMentor
Programに選ばれ、スタジオで作品制作しながら自分のアートを追及できる環境を与えられてたんですけど、ほんとにただひたすら、ガーッと作り続けてましたね。家でも作ってましたが、なるべく1人の時だけ制作し、夫が帰るとパタッと止めて(笑)。
AA1:切羽詰った状態の方が、濃密な時間を過ごせるし、使い方もうまくなる。作品をつくる上では強いと思うんですが、どうでしたか?
MY: Mentor Programの1年は脳がフル回転して、すごいことになってました。24/7、アートのことを考え、寝ても覚めてもアイデアが閃くって感じ。「ええー!すごいことを思いついてしまったあ!!」と興奮しながら朝起きることもしょっ中(笑)。当時の作品はみな大作で、今発表してる作品のベースはその頃にできあがってるんです。でもね、さすがに大作ばっかりなんで、仕事的には大変で。「あたし、なんでこんなこと思いついちゃったんだろう?」って半分泣きながら作ってる、みたいな(笑)。
Programの期間中は、アメリカ人とずっと一緒にいてアートについてとことん話したので、英語もかなりできるようになりました。何より、「アメリカって何だろう」みたいなのがわかってきた時期ですね。
AA1:逆に、日本のこととか、日本人としての自分についてとかは考えましたか?
MY:日本人としての自分というのは、実際にアートを始めて、作品を作り出してから、それが何なのか勉強するようになり考え出しました。アジア哲学や歴史のクラスをいろいろとったり、本を読んだり。
AA1:東洋を勉強して、どうでした?
MY:「自分のバックグラウンドはもう東洋」って、ものすごくしっくりしました。自分が考えてるよりも、自分の思考はそっちの方に組まれているんだな、と思います。それまでは周りが「東洋、東洋」ってうるさいというか、私が日本人だから“日本っぽい(伝統的なもの)”もの作って欲しいという期待が見え見えで。「私はそんな時代に生きてないよ!」みたいな反発がありました。でも今は、「私は日本人だ」と開き直った感じになっているので、そういう周囲に対する反発でものづくりをすることも、それに左右されることもないです。
AA1:反発から作ってた時期とかあったんですか?
MY:反発からは作ってないですけど、アートを始めた頃は、自分の生活に関係ない「日本」を使うのは、ダサいなあ、みたいな感覚はありました。日系アメリカ人がそれを使うならわかるんですよ。彼らの「日本」はその人の「おじいちゃん・おばあちゃん」の時代の日本だから。けれど現代の日本人にそういう感覚はないと思うんですね。
でも、自分の作品を見て、「あたしって、ホント日本人だな」と思うことはよくあります。どういう「かたち」になろうが、「emptiness」とか「nothingness」という共通のテーマがある。ただ、それを言葉で説明するっていうのは、あまり好きじゃないんです。
AA1:アーティスト・ステートメントとか。
MY:書くのはいいんですよ。でも作品を前にして「これはこういう意味だ」と説明すると、そこしか見てくれない。オーディエンスが私の意図通りに作品をとらえなくても、それはそれでいいんです。けれどこっちが、例えば「この作品には東洋的思想が入っています」と言ってしまうと、そこでバイアスが入ってしまいますよね。そういうことは、できるだけ避けたいですね。
AA1:アメリカでファイン・アートを専攻すると、西洋哲学や西洋史、西洋文学が必修になってると思うんですが。
MY:西洋中心ですからね。最初の、そういう勉強を始め出した頃は、何となく違和感を抱いていました。全く逆ですから。言葉も、その成り立ちも、いろいろと。でも、いま現代西洋哲学を勉強しているんですけど、東西の思想が影響しあっているという感じで、これは面白いです。
西洋から見た「他者」であるオリエント、オリエンタリズムが、どう西洋(オクシデンタル)とエクスチェンジされているかという点に、とても興味があるんですよ。そこのところを、作品で追及してみたいですね。
AA1:Paint by Numbers(以下PBN)シリーズにはどんな風にしてたどり着いたんですか?
MY:自分の見てる世界、自分の外の世界っていうのは自分が映し出したもの=つくり出したものであり、だから他の人に見えてるものが同じわけがない、という発想からきています。もう一つ、小さい時に母が「ペイント・バイ・ナンバー」をしていて、彼女は木の実を塗り絵のようにペイントし、赤い実に白い点を入れてたんですけど、そうすることで円く立体的に見えるでしょう?小さいながら「すごい!」とびっくりしたの覚えてるんですよ。そういう立体表現って日本画にはない技法じゃないですか。この経験も自分のPBNを手がけるきっかけになりました。
PBNの作品自体は2年ぐらい前から作り出したんですけど、「Three Girls」が一番最初の作品です。それから種類をつくりました。最近の作品がやっと元々のPBNから離れだしたな、って感じです。これからどんどん、MICHIKO
YAOのカタチになっていくんじゃないかなあと思うんですけど。
AA1:ここまで進化してきましたもんね。バーの時代から、日本へ帰るかどうするかの辛かった青の時代を経て。今はピンクですか?
MY:ねえ(笑)! 作品も進化していきますよ。ペインティングもやるけど、それだけじゃない。内容も段々ポリティカルになってきたし。今度のグループ・ショウでは、オーディエンス参加型のインスタレーションやります。これまで2Dばっかりやってて、なんかワクワクするものが作れなかったから。
AA1:抑圧されてました?
MY:されてました、されてました(笑)! ギャラリーがね、「こういうもの作って」とか「具象が欲しい」とか言うんです。自分は新人だし、妥協しながら、その中でできる面白いものを作ろうとやってましたけど、ショウの度にやっぱり「この作品、よくないよなあ…」と反省する…。ギャラリーやキュレイターが、私の作品やコンセプトをきちんと理解してくれていないと難しいですね。「この人、わかってないな」と気づいた時が辛い。
今は立体に興味があります。部屋全体を作るとか、その場所でインスピレーションを受けて、「ここにこういうもの作ろう」って方が面白い。壁の変な“くすみ”とか探してね(笑)。こういう(取材したインド料理店のような)デッドスペースみたいなところに惹かれるんですよ(笑)。ホント、ギャラリーとかに「これだけスペースあげるから、自由に使って」って言われるのが理想!
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